マラッカの歴史を語る上で欠かせないもうひとつのグループが、 ポルトガル系ユーラシアン。
今回の旅行で、ポルトガル広場(ポーチュギース・セトルメントと呼ばれるエリアにある)と、古くから残るユーラシアンのカンポン(村)を訪れました。
マラッカは1511年から1641年にポルトガルの植民地となった歴史があります。
ポルトガルはマラッカを拠点にアジアへ進出し、日本まで来たのです。大航海時代はまだまだ船旅は危険に溢れていて、母国から女性や妻を連れて来ることは難しかったこともあり、ポルトガル人たちは現地女性と結婚します。またポルトガル政府も植民地化をスムースにするため現地人との婚姻を奨励したので、1604年には200人ものポルトガル人が現地人と結婚した記録があるそうです。
写真)マーティンさんの家にて
ところが、オランダに破れこの土地の支配権を奪われると、プロテスタントのオランダ人からの迫害を逃れる為に自らをポルトガル人ではなく、クリスタンと呼ぶようになったのだそうです。そう、クリスタン=キリスト教徒です。 ・・・・といくつかの資料にはそう書いてあります。
ところが観光地になっているポルトガル広場にある、おまけのような博物館に行き、おじいさんに案内をしてもらいますと、自分たちのことをPortugueseと強調して言い続けるので、「クリスタンではないのですか?」と訊くと、「違います!クリスタンというのは、料理や言語には使えますが、人を指す場合はポーチュギースです。クリスタン人というのは間違いなのです!」と説明されました。
ポルトガル村の7代目Regedor(リーダー)であるGomes氏(左)と
博物館を案内してくれたOvareeさん(中央)
前にもここのブログで書きましたが、ポーチュギースという言い方をすると、ポルトガル本国の文化や料理、建物があると一般の旅行者は誤解するでしょう。マラッカにはそれとかけ離れたものしかありません。人種も色黒のインド系、マレー系のような人たち、しゃべる言語はクリスタンかマレー語、食べ物もスパイシーな料理。ポルトガル風の建物はなく、せいぜいカトリック教会の遺跡が広場とは遠く離れた場所にあるのみ。
ポルトガル・スクエアにはシーフードバーベキューを食べさせる数軒のレストランが集まっており、中央に設けられたステージで夜ごとポルトガルダンスを見せるのだそうです。私たちが行ったのは昼間でしたので閑散としており、レストランもあてにしていたところが閉まっていましたので、適当に開いているところで食べましたが、クリスタンの名物料理であるはずのカリー・デバルもまったく「なんちゃって」、あまりのひどさに呆れ返りました。
ただこの地域に住んでいるポルトガル系末裔の方たちとお話をできたのは興味深いものでした。可愛いい美少女なども見れてそれはそれでよかったです。陽気なダンスを見ながらシーフード・ディナーを楽しむにはいいかもしれません。
今回の旅行で、ポルトガル広場(ポーチュギース・セトルメントと呼ばれるエリアにある)と、古くから残るユーラシアンのカンポン(村)を訪れました。
マラッカは1511年から1641年にポルトガルの植民地となった歴史があります。
ポルトガルはマラッカを拠点にアジアへ進出し、日本まで来たのです。大航海時代はまだまだ船旅は危険に溢れていて、母国から女性や妻を連れて来ることは難しかったこともあり、ポルトガル人たちは現地女性と結婚します。またポルトガル政府も植民地化をスムースにするため現地人との婚姻を奨励したので、1604年には200人ものポルトガル人が現地人と結婚した記録があるそうです。
写真)マーティンさんの家にて
ところが、オランダに破れこの土地の支配権を奪われると、プロテスタントのオランダ人からの迫害を逃れる為に自らをポルトガル人ではなく、クリスタンと呼ぶようになったのだそうです。そう、クリスタン=キリスト教徒です。 ・・・・といくつかの資料にはそう書いてあります。
ところが観光地になっているポルトガル広場にある、おまけのような博物館に行き、おじいさんに案内をしてもらいますと、自分たちのことをPortugueseと強調して言い続けるので、「クリスタンではないのですか?」と訊くと、「違います!クリスタンというのは、料理や言語には使えますが、人を指す場合はポーチュギースです。クリスタン人というのは間違いなのです!」と説明されました。
ポルトガル村の7代目Regedor(リーダー)であるGomes氏(左)と
博物館を案内してくれたOvareeさん(中央)
前にもここのブログで書きましたが、ポーチュギースという言い方をすると、ポルトガル本国の文化や料理、建物があると一般の旅行者は誤解するでしょう。マラッカにはそれとかけ離れたものしかありません。人種も色黒のインド系、マレー系のような人たち、しゃべる言語はクリスタンかマレー語、食べ物もスパイシーな料理。ポルトガル風の建物はなく、せいぜいカトリック教会の遺跡が広場とは遠く離れた場所にあるのみ。
ポルトガル・スクエアにはシーフードバーベキューを食べさせる数軒のレストランが集まっており、中央に設けられたステージで夜ごとポルトガルダンスを見せるのだそうです。私たちが行ったのは昼間でしたので閑散としており、レストランもあてにしていたところが閉まっていましたので、適当に開いているところで食べましたが、クリスタンの名物料理であるはずのカリー・デバルもまったく「なんちゃって」、あまりのひどさに呆れ返りました。
ただこの地域に住んでいるポルトガル系末裔の方たちとお話をできたのは興味深いものでした。可愛いい美少女なども見れてそれはそれでよかったです。陽気なダンスを見ながらシーフード・ディナーを楽しむにはいいかもしれません。
もともとユーラシアンが住んでいたエリアはマラッカに3カ所ほどあり、ひとつはアッパー・テンズと呼ばれた、ほんの一握りの上流階級(おそらくポルトガル系というより、オランダ系、イギリス系の富裕家族)が住んでいたトランケラ通り(トランケラモスクよりも先の方、いまでも大きなバンガローが残っています)、そしてちょっと裕福なグループは中心部にあるBandar Hilir、そして漁師などの「貧しい」グループはPraya Laneと呼ばれるあたりです。
ポルトガル広場にがっかりした話をすると、マラッカの友人が「良い人を紹介してあげる」といい、連れてってくれたのが、ちょうどこのPraya Laneでした。大型ホテルや安宿が多いタマン・メラカ・ラヤのすぐそばです。 ビルが並ぶ街中にぽつんと現れたひなびたカンポンに、マーティンさんというポルトガル系ユーラシアンの家族が住んでいました。すぐとなりにカソリック教会が建っています。しかし、1930年ごろにポルトガル宣教師のかけ声で新規にポルトガル・セトルメントが建てられ、多くの人がそちらへ移住しました。それでもここを離れず残った家もいくつかあります。
マーティンさんはもともと漁師でしたが、料理の腕が評判を呼び、クリスタン料理に欠かせない食材やお惣菜を売るようになりました。ここの家は今でも昔のまま。プラナカン料理にもかかせないマラッカならではの食材ブラチャン(蝦のペースト)も彼の手作りです。マーティンさんのキッチンには年季のはいった大きな龜がいくつも並び、料理好きなら身震いしそうな光景が広がっていました。龜の中には、庭になるマンゴーの実で作られたマンゴー・ピクルス、数種の野菜をひとつひとつ日干しにして作った漬け物アチャー、塩魚で作ったサンバルなどなど、どれもこれも期待通りの絶品で私たちはテンション上がりっぱなし。
しかもマーティンさんは私たちの質問にも包み隠さず話をしてくれ、矢継ぎ早に質問をぶつける私たちを、マーティンさんの奥さんもお兄さんもおじいちゃんもニコニコと見ています。次回は私たちがどうしても食べたいと思っているクリスタン料理のいくつかを作ってもらう約束を取り付け、今回はあまりにも突然の訪問だったのでマンゴー・ピクルスやアチャーを買うだけで我慢しました。
どちらも重いガラス瓶に入っていましたが、ど根性で持ち帰った私たちです。ちえさんなどは空港の手荷物検査で「これは何だ?液体は持ち込めないぞ!!」と差し止められそうになりましたが、丈夫な高級バッグを買って詰め替えてチェックインしたそうです。すごい執念!しかし、そこまでしても持ち帰りたい大切なものでした。
残念なことにマーティンさんはまもなくこの家を立ち退かないと行けないらしいのです。次回マーティンさんと会うのは、引っ越し先になるのでしょう。 あの緑溢れるひなびたカンポンの、こぎれいな昔ながらの台所が再び見れないと思うと残念でなりません。
ポルトガル広場にがっかりした話をすると、マラッカの友人が「良い人を紹介してあげる」といい、連れてってくれたのが、ちょうどこのPraya Laneでした。大型ホテルや安宿が多いタマン・メラカ・ラヤのすぐそばです。 ビルが並ぶ街中にぽつんと現れたひなびたカンポンに、マーティンさんというポルトガル系ユーラシアンの家族が住んでいました。すぐとなりにカソリック教会が建っています。しかし、1930年ごろにポルトガル宣教師のかけ声で新規にポルトガル・セトルメントが建てられ、多くの人がそちらへ移住しました。それでもここを離れず残った家もいくつかあります。
マーティンさんはもともと漁師でしたが、料理の腕が評判を呼び、クリスタン料理に欠かせない食材やお惣菜を売るようになりました。ここの家は今でも昔のまま。プラナカン料理にもかかせないマラッカならではの食材ブラチャン(蝦のペースト)も彼の手作りです。マーティンさんのキッチンには年季のはいった大きな龜がいくつも並び、料理好きなら身震いしそうな光景が広がっていました。龜の中には、庭になるマンゴーの実で作られたマンゴー・ピクルス、数種の野菜をひとつひとつ日干しにして作った漬け物アチャー、塩魚で作ったサンバルなどなど、どれもこれも期待通りの絶品で私たちはテンション上がりっぱなし。
しかもマーティンさんは私たちの質問にも包み隠さず話をしてくれ、矢継ぎ早に質問をぶつける私たちを、マーティンさんの奥さんもお兄さんもおじいちゃんもニコニコと見ています。次回は私たちがどうしても食べたいと思っているクリスタン料理のいくつかを作ってもらう約束を取り付け、今回はあまりにも突然の訪問だったのでマンゴー・ピクルスやアチャーを買うだけで我慢しました。
どちらも重いガラス瓶に入っていましたが、ど根性で持ち帰った私たちです。ちえさんなどは空港の手荷物検査で「これは何だ?液体は持ち込めないぞ!!」と差し止められそうになりましたが、丈夫な高級バッグを買って詰め替えてチェックインしたそうです。すごい執念!しかし、そこまでしても持ち帰りたい大切なものでした。
残念なことにマーティンさんはまもなくこの家を立ち退かないと行けないらしいのです。次回マーティンさんと会うのは、引っ越し先になるのでしょう。 あの緑溢れるひなびたカンポンの、こぎれいな昔ながらの台所が再び見れないと思うと残念でなりません。
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- 無題
マーティンさんのアチャーはポルトガル風と言ってましたが苦労して持ち帰っただけあり、素晴らしい味でした。
次回のブログで紹介したいと思います。
ちなみに、クリスタンと呼ばれるユーラシアン・ポーチュギーズは、マレー人やインド人、中国人と結婚したとしても絶対に「ローマン・カトリック」であること、クリスタン語を話すこと、初代の祖先を15世紀くらいまでたどれること、など色々な決まりがあるようですね。
まだ見ぬ故郷、ポルトガルに思いをはせながら椰子の木陰に整列してくれたゴメスさんとオバリーさん。彼らの憂いを帯びた表情が今でも忘れられません。みんないい人たちでしたね。
マラッカという土地が育んだ貴重なクレオール文化を、これからも大切に守っていってほしい!と、つくづく思う旅でした。
次回のブログで紹介したいと思います。
ちなみに、クリスタンと呼ばれるユーラシアン・ポーチュギーズは、マレー人やインド人、中国人と結婚したとしても絶対に「ローマン・カトリック」であること、クリスタン語を話すこと、初代の祖先を15世紀くらいまでたどれること、など色々な決まりがあるようですね。
まだ見ぬ故郷、ポルトガルに思いをはせながら椰子の木陰に整列してくれたゴメスさんとオバリーさん。彼らの憂いを帯びた表情が今でも忘れられません。みんないい人たちでしたね。
マラッカという土地が育んだ貴重なクレオール文化を、これからも大切に守っていってほしい!と、つくづく思う旅でした。
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プラナカンを中心に、シンガポール・マレーシアの話題をお届け。食べ物・旅行の話題が中心です。
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シンガポールとペナンに住んで20数年、プラナカン協会会員です。ライター&コーディネート業務に携わっています。ご依頼・お問い合わせは下記ホームページからお願いいたします。
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